竹田城〜銀山湖へ
[その1]

京都→福知山→和田山→竹田城→生野


+ さあ出発 +

今回は車で行きます
国道9号線をひた走ると、
3時間程で、竹田城の入り口に到着です。

竹田小学校の裏山からの、観音寺山登山道で竹田城を目指します。



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はじめは、人工林の中を登って行きます。
途中に、プチ塔のようなものが建っている。
説明はないので、ちょっと謎ですね。
しばらく行くと、自然林に変わります。
山ツツジが満開です(^^)

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水滴がついて、なかなかキレイ。



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観音寺山に到着。
山頂付近にも山ツツジが咲いています。
山頂の展望はありません

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新緑の山道を行きます


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あちこちにツツジが。
緑色のクモが、水滴を飲んでいます。


+ 城跡が見えてきました +

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まず、大手口を登っていくと、北千畳に到着。
大パノラマが広がります。


竹田城は、
嘉吉年間(1441〜43)に但馬の守護大名、 山名宗全が
出石城の出城として、 播磨・丹波から但馬への侵略路に位置するこの地に、
13か年を費やして築いたと伝えられています。
その後、秀吉の2度の但馬征伐で竹田城は落城、
桑山修理太夫重晴、続いて 赤松広秀が城主となります。
広秀は朝来郡2万2000石を領有し、文禄年間から慶長の初期(1600年頃)に、
現在のような豪壮な石垣積みの城郭を築きます。

しかし、赤松広秀は、関ヶ原の役で西軍に属し敗北、
その後、徳川方として鳥取城攻めに加わり戦功をあげますが、
城下に火を放ったとの罪を押しつけられ自刃、竹田城は廃城となります。

また、竹田城の石垣の積み方は、
近江の穴太(あのう)流石積み技法が用いられています。
織田信長の安土城も同じ技術です。
石材は現地のほか山麓付近から集めたものと考えられ、
花崗岩で最大のものは推測、5トンとされています。
その石垣は、400年を経た現在でも、当時の偉容をそのままに誇っています。


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桜は、ちょっと遅かったみたいですね。
でも、葉桜もなかなかキレイです

三の丸二の丸を抜けて本丸へ向かいます

 
本丸跡に到着
本丸跡から南千畳を望む



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大手口を振り返ります。
それにしても広い敷地。
圧倒されます。

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